会津の観光

会津の歴史

大和朝廷の時代にすでに朝廷と深い結びつきを持ち平安時代には仏教文化の花が開いた会津は、北の要地として日本史に度々登場します。江戸時代、将軍家光の異母兄弟・保科正之が会津23万石の領主となると、御親藩としてその地位はますます重要なものとなり、質実剛健で強固な藩風が築き上げられていったのです。
徳川家に絶対の忠義を誓った藩祖・保科正之の定めた「家訓」。会津藩の憲法とも言えるこの「家訓」が幕末の会津の運命を決定付けます。動乱の京都に治安を取り戻すために会津藩に白羽の矢が立った京都守護職の重職。時の天皇・孝明帝の絶大な信頼を受けながらも、愚直なまでの会津は将軍家を守り続け、政争の大渦の中でいつしか「逆賊」という汚名まで着せられてしまうのです。江戸が無血開城した後も会津は戦い続けねばなりませんでした。新政府軍は会津を討つことに全戦力を集中し、会津を滅ぼすことによって革命を成就させようとしたのです。
会津に攻め込んだ西軍は10万を越え、数多くの悲劇を残して戦火は会津野を焼き尽くしたのです。1ヶ月に及ぶ籠城戦の後に会津を待っていたのは、斗南(下北半島)への挙藩流刑という過酷な運命でした。しかし、そうした苦しみの中から立ち上がり新たな時代を切り拓いていった人々が数多くいたのです。山川3兄弟、柴五郎、山本八重子など明治の巨星と呼ばれる先人たち…どんなに暗くとも決して明けない夜のないように、長い苦難の時を越え会津にも陽はまた登ったのです。

鶴ヶ城(会津城)

1384年、葦名(あしな)家が築いた東黒川館(ひがしくろかわやかた)を前身に持ち、黒川城と名をあらためたのちに、伊達、蒲生、上杉、加藤といった名だたる戦国大名が次々に居城としました。
1590年、小田原の北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、白河街道を通って会津へ入り奥州仕置を行いました。この時、秀吉に会津を託されたのが蒲生氏郷(がもううじさと)です。氏郷は、積極的に城下の整備を行うとともに、七層の天守閣をもつ若松城を築城しました。空高く翼を広げたような天守閣の形から「鶴ケ城」と親しまれ、その後、加藤明成によって五層の天守閣に改築されて難攻不落の名城となったこの城は、1ケ月も続いた戊辰戦争での籠城戦にも耐えたことで知られています。

飯盛山

白虎隊の墓が山中にあります。昔は正栄寺や宇賀神社、さざえ堂などのある景勝地として知られていました。明治17年に自刃19士の墓が建ち、その後戦死31士の墓を追加、また自刃の場も整備されました。昭和3年ローマから記念碑が送られ、 昭和10年には駐日ドイツ大使館付武官によって石碑が建てられました。また松平容保の歌碑を始め、数多くの石碑が建てられています。
昭和32年には蘇生者飯沼貞吉の墓も設けられ、山下には白虎隊記念館も建設されました。今も白虎隊の墓前は香煙が絶えることはありません。

大内宿

江戸時代の宿場の面影を今もそのままに残した貴重な村です。街道は会津西街道または南山通りと呼ばれ、 会津若松と日光今市を結ぶ重要な道でした。街道の両脇には堀の水が流れ、約30軒の萱葺き民家が建ち並び、いまにも参勤交代が通りそうな雰囲気。国重要伝統的建造物群保存地区です。

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