新撰組「土方歳三」療養の地【会津・東山温泉】
幕末の時代に、最も輝いていたと言っても過言ではない「新撰組」は、幕末の京都、京都守護職であった「松平容保公」より
会津藩お預りと呼ばれる京都の治安部隊でした。
新撰組副長「土方歳三」は、幕末の新政府軍との戦いながら、北上します。
再度、新政府軍との戦いで、宇都宮の戦いで足を負傷した土方歳三は、傷に良く効くとされる東山温泉で療養したと言われています。
会津には、約3ヶ月療養した記録があることからも、幕末の切迫した状況の中であったことから考えても、土方が深い傷を負ったことが考えられます。
東山温泉でも、しばしば療養に訪れた土方を目撃した人も多く、戊辰戦争での負傷を癒し、そして心も癒していたのかもしれません。
江戸末期の大須賀清光画の東山温泉絵図には、瀧の湯・有馬屋(昭和6年ごろ所有)の二軒(現在ある旅館名)があり、
特に「瀧の湯(のちの旅館 松島、現在の「庄助の宿 瀧の湯」)は藩の座敷役場を兼ねた旅館でした。
その普請の浄財を集める趣意書に「瀧の湯番頭役場座敷申合せ帳」があり、西郷頼母・内藤界衛門はじめ家老達の名が連なっています。
斎藤一も新撰組三番隊隊長での功労を称えられ、藩主松平容保公に仲人ばかりか、四度、名を変えた斎藤一に藤田五郎と命名して下さいました。
これ以降名を変えることはなかったと言います。これだけの藩主からの恩光を授かったのですから、新撰組副長である土方歳三が会津での歓待ぶりは想像以上のものがあったものと思われます。
東山温泉は、もともと「天寧寺の湯」と呼ばれていて、のちに、「天寧温泉」「東山温泉」と名称を変えます。
土方歳三は、会津療養の間に、その天寧寺で「近藤勇の墓」を建立します。
「近藤勇の墓」には伝説があり、京都にさらし首になっていた近藤の首を、土方が齋藤一に取りに行かせ、
その首を、会津の地に葬ったとも、遺髪のみを埋葬したとも言われています。
「近藤勇の墓」を建立する際、土方はじめ、齋藤一などのメンバーも天寧寺に滞在した記録が残っています。
天寧寺の湯であった、当館の湯は、
藩の座敷役場を兼ねた旅館であったこと、
齋藤一、土方らが天寧寺に滞在した記録があること、
土方が会津で3ヶ月間も療養した記録があること、
東山温泉でもしばしば土方などのメンバーが目撃されたこと、
を考えると、当館の湯で療養したと考えるのも自然であると考えられます。
土方歳三ら、幕末の志士たちが足繁く訪れた、東山温泉の湯を是非、ご堪能くださいませ。

昭和初期の旅館松島
天寧温泉の図「大須賀清光」
幕末、土方歳三の足跡
富士で頭後、助命嘆願のかたわら新撰組を斎藤一に託して会津へ向かわせ、島田魁ら数名の隊士のみを連れて大鳥圭介らが率いる旧幕府脱走軍と合流しました。新政府軍と再度宇都宮で戦った際に足を負傷し、本軍に先立って会津へ護送されることとなったのです。会津では約3ヶ月間の療養生活を送り、この間に近藤勇の墓を天寧寺に建てたと言われています。
全快して戦線に復帰した後は会津の防戦に尽力しますが、8月母成峠の戦いの敗戦に伴い会津戦争が激化。歳三は援軍を求めて庄内藩に向かいますが、既に恭順体制の庄内においては入城さえ叶いませんでした。歳三は会津から仙台へ向かうことを決めたのです。同じように戦列を離れた大鳥圭介に対して斎藤一らは会津藩に忠誠を尽くすべきだと訴えたと言います。土方は、会津藩領では新撰組に復帰してはいませんでした。そして、城下に残る斉藤達と、仙台へ天寧寺から離脱した隊士達とに新撰組は分裂するのです。

近藤勇の墓 天寧寺
新撰組二番隊 会津新撰組隊長 斎藤一の墓がある阿弥陀寺
新撰組
江戸時代後期の幕末期に、主に京都において反幕府勢力弾圧・警察活動に従事したのち、旧幕府軍の一員として戊辰戦争を戦った軍事組織です。
浪士(町人、百姓身分を含む)で構成される新撰組は会津藩預かりという非正規部隊でした(後年、近藤ら幹部は幕臣となりました)。
隊の規律維持のために厳しい局中法度を定め違反者に対し粛清を行ったこと、また、
「誠」の一字の隊旗や袖口に山形の模様を染め抜いた独特の羽織も有名です。
文久2年(1862年)、江戸幕府は庄内藩の郷士・清河八郎の建策を受け入れ将軍・徳川家茂の上洛に際し
将軍警護の名目で浪士を募集しました。
翌年文久3年(1863年)2月27日、集まった200名余りの浪士達は浪士組として一団を成し、中山道を西上しますが、
京に到着後、浪士組を天皇配下の兵力にしようとする画策が露見します。
浪士取締役の協議の結果、浪士組は江戸に戻ることとなりました。
これに対し近藤勇、土方歳三を中心とする試衛館派と、芹沢鴨を中心とする水戸派は、あくまでも将軍警護の為の京都残留を主張します。
鵜殿鳩翁は、浪士組の殿内義雄と家里次郎に残留者を募るよう指示。
これに応えて試衛館派、水戸派、殿内以下、根岸友山一派などが京の壬生村に残りましたが、
根岸派は直後に脱退、殿内・家里は排斥され、同年3月、
公武合体に基づく攘夷断行の実現に助力することを目的とし新撰組の前身である「壬生浪士組」を結成します。
壬生村の八木邸や前川邸などを屯所とし、第一次の隊士募集を行い、
その結果36人余の集団となった壬生浪士組は、京都守護職松平容保(会津藩主)より、
主に尊攘激派(勤王倒幕)浪士達による不逞行為の取り締まりと市中警護を任されることになったのです。
同年8月に起きた「八月十八日の政変」に出動し、壬生浪士組はその働きを評価されます。
そして、新たな隊名「新撰組」を拝命します。
文久3年9月、近藤・土方ら試衛館派は、芹沢ら水戸派を粛清して隊を掌握し、近藤を頂点とする組織を整備します。
元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件では尊王攘夷派の蜂起の計画を未然に防ぎ、「禁門の変」に参戦します。
池田屋・禁門の変の働きで朝廷・幕府・会津藩より感状と200両余りの褒賞金を下賜されると、
元治元年9月に第二次の隊士募集を行い、更に近藤が江戸へ帰郷した際に伊東甲子太郎らの一派を入隊させました。
新撰組は200人を超す集団へと成長し、隊士を収容するために西本願寺(京都市下京区)へ本拠を移転します。
慶応3年(1867年)夏頃には幕臣に取り立てられました。
慶応3年3月、伊東らの一派は思想の違いなどから御陵衛士を拝命して隊から分派、
同年11月、新撰組によって粛清されます(油小路事件)。
慶応3年11月に徳川慶喜が大政奉還を行い、以降旧幕府軍と共に鳥羽・伏見の戦いに参戦するも、
新政府軍に敗北。その後、榎本武揚が率いる幕府所有の軍艦で江戸へと移動します。
新撰組は幕府から、新政府軍の甲府進軍を阻止する任務を与えられ甲陽鎮撫隊へと名を改め出撃するも敗戦。
甲州勝沼の戦いの後、江戸に戻ったが、方針の相違から永倉新八、原田左之助らは分離して靖兵隊を結成。
近藤、土方らは再起をかけ、流山へ移動するも、近藤が新政府軍に捕われ処刑され、沖田総司も持病であった肺結核の悪化により江戸にて死亡します。
新撰組は宇都宮城の戦い、会津戦争などに参戦するが、会津では斎藤一等が離隊。
その後蝦夷共和国の成立を目指す榎本武揚らに合流し、二股口の戦い等で活躍します。
新政府軍が箱館に進軍しており、弁天台場で新政府軍と戦っていた新撰組を助けようと
土方ら数名が助けに向かうが土方歳三が銃弾に当たり死亡し、食料や水も尽きてきたので新撰組は降伏しました。

近藤勇 天保5年10月9日(1834年11月9日) - 慶応4年4月25日(1868年5月17日)
16歳で天然理心流3代目近藤周助の養子になり、28歳で天然理心流4代目を襲名します。
文久4年、元治元年(1864年)池田屋事変で名新撰組と近藤勇の名は天下に轟きました。
慶応3年(1867)鳥羽・伏見の戦いの直前、御陵衛士の要撃で右肩に銃傷を負います。
参戦せず江戸に戻り、翌年3月、新撰組を甲陽鎮撫隊として甲府を攻めますが敗戦。
4月、「大久保大和」の偽名で下総流山で再挙を試みますが、
急襲してきた征討軍に出頭、連行途中に偽名を見破られてしまいます。同月25日、
東京板橋で斬首。京都の三条河原において罪文とともに晒し首にされました。享年35歳。
会津若松市内の天寧寺には、土方が近藤の遺体の一部を葬ったとされる墓があります。

土方歳三 天保6年5月5日(1835年5月31日) - 明治2年5月11日(1869年6月20日)
25歳の時に天然理心流に入門。
新撰組では副長として、
京で最強の軍にするため常に新撰組の規律を遵守させ、妥協は許さず、隊士たちから恐れられていたとされています。
慶応4年(1868年)下総流山で近藤と別れ、旧幕府の幕臣大鳥圭介の軍に合流。
宇都宮の戦いで負傷し、会津田島を経て若松に入ります。清水屋旅館に投宿し、東山温泉で湯治しました。
この間に、容保公に近藤の戒名をもらい、天寧寺に墓を建てたと言われています。
母成峠の戦いに参戦。郡山市の福良では白虎隊と親交があったとも言われています。
滝沢本陣に出陣していた容保公を城内に送り、援軍を求め米沢を目指しました。
同年9月大鳥や榎本武揚とともに函館の五稜郭で戦い、翌年5月11日戦死しました。享年35歳。

斎藤一 天保15年1月1日(1844年2月18日) - 大正4年(1915年9月28日)
一刀流の達人でしたが、19歳の時に誤って人を斬り、
江戸から京都へ逃れます。上洛してきた浪士隊と出会い、新撰組結成後は、その腕を買われて三番隊の組長となり、
沖田、永倉に並ぶ剣客で剣術師範も務めた程でした。
池田屋事変では、最初の斬り込みには加われなかったが、
到着後屋内に飛び込み苦戦していた近藤らを助けたと言います。
また、伊東甲子太郎らが脱隊した時に同行し御陵衛士となりましたが、
スパイとして近藤に情報を流していました。
新撰組に復帰した後は、山口二郎と改名し戊辰戦争に身を投じます。
鳥羽・伏見、甲州勝沼の戦いを経て会津に辿り着きますが、すでに近藤は亡く、
負傷した土方に代わり隊長となり新撰組を指揮しました。しかし会津戦争が敗戦間近になると、
見切りをつけて仙台に向かおうとする土方と意見が対立し、『会津を見捨てるのは正義ではない』と
一部の同士とともに会津に残りました。その後、藤田五郎と改名。会津藩士の娘、時尾と結婚。
警視庁に勤務し、最後は東京教育博物館に勤務。大正4年(1915年)9月28日、胃潰瘍のため死去。
床の間に座ったまま往生を遂げたと伝えられています。本人の希望により
市内七日町阿弥陀寺に眠っています。享年72歳。






