天地人Tenchijin

天地人ゆかりの地

慶長3年(1598年)、秀吉から越後から120万石で会津へ移封となった上杉景勝。
名参謀の直江兼続(なおえかねつぐ)は米沢に入ります。謙信の遺骸も会津へ運びました。 そして若松城内に仮廟所建て、安置したのです。その後、神指城の築城に合わせ、本廟所を移転することになります。慶長6年には米沢へ移されました。
毛利輝元・上杉景勝・前田利家・石田三成と家康とが対立し、関ヶ原へと向かう要因になります。 兼続は、滋賀県三和山の石田三成と密談し、家康との対立構造を明確にします。

慶長5年(1600年)景勝は、福島県中通り地方の諸城普請を春から夏までの間に済ませるよう指示します。 景勝は、兼続に、向羽黒山城の改修が終了したことから、若松城では、城下を拡張する事が出来ない事や、東日本の経済都市、中心都市にしようと新城(神指城)の築城を命じたと考えられます。
4月1日、家康は兼続に対し、上洛の催促と、諸城の改修理由について質問状を出します。 14日には、兼続が返事を書いています「直江状」です。 4月27日、家康は兼続の返書に激怒し、会津進攻を決意します。 5月3日、家康は諸大名に会津出征を命じます。6月10日、景勝は、神指城の築城を中止し、家康に対する臨戦態勢を命じます。とくに、白河、栃木県藤原町の横川、福島に家臣を派遣し、城の改修を指示しています。

7月19日、豊臣方が伏見城を取囲みます。24日、家康は栃木県の小山まで攻めてきます。 同日、宮城県の白石城を伊達政宗が攻め落とします。7月25日、家康は、石田三成らの征伐を決意します。 景勝は、本格的に家康と戦争をする覚悟であったようです。 しかし、県内での家康との直接対決はなく、関ヶ原後は、家康側近の本多正信を仲介に蔵方の金800枚を有効活用し、 上杉家の延命措置に奔走したことは言うまでもありません。

家康が本当に45,000の大軍で会津に攻め込んだとしても、景勝が築かせた白河や栃木県藤原町の一次防塁線、 長沼城から郡山市湖南町に築かれた二次防塁線、同盟の佐竹方による側面攻撃により、景勝が勝利していたことでしょう。 近年、関ヶ原でも上杉氏と同様な防塁が発見されています。

「会津の歴史」石田明夫氏抜粋

関連する人物等

上杉景勝 1556年1月8日 - 1623年4月19日

戦国時代から江戸時代にかけての武将、戦国大名。豊臣政権の五大老の一人。出羽米沢藩初代藩主。上田長尾政景の二男。母は上杉謙信の姉(仙桃院)で、謙信の甥にあたり、幼名は卯松。通称は喜平次。長じて長尾顕景と名乗りました。従三位・弾正小弼・参議・権中納言。妻は武田信玄の娘、菊姫。

養父である上杉謙信が亡くなると、謙信のもう一人の養子、景虎と後継者争いをしました(御館の乱)。この戦いに勝利し上杉家第2代当主となります。
豊臣政権になると景勝は豊臣秀吉の重臣となり、秀吉の5大老まで登りつめます。 慶長3年(1598年)には越後から会津120万石へ国を移封しましたが、関ヶ原合戦後には米沢30万石に国替えを命じられて米沢城が上杉家の拠点となりました。

[画像]上杉景勝

直江兼続 1560年 - 1620年1月23日

戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。上杉氏の家老。父は長尾政景に仕えた樋口兼豊。兼続は長男として生まれ直江家を継ぐまでは樋口与六という名でした。兼続は幼いころから学問を好み、利発であったと言います。

幼少の頃から才に長けており、上杉景勝の母(上杉謙信の姉・仙洞院)に認められ、5歳年上の上杉景勝の小姓(近習)として仕えました。
少年時代の兼続は上杉謙信のもとで『目先の利に捕らわれず、背筋を伸ばして生きることが”義”の精神』だと教えられ、義の精神を学んだと言います。

[画像]直江兼続

御館の乱では、父・樋口兼豊と兼続の生家・上田衆と共に奮戦し勝利をおさめますが、 戦の恩賞が上田衆ばかりに多く与えられ、その論功を巡り仲間同士の反乱が起きてしまいます。 この内乱により与板城の城主・直江信綱が毛利秀弘に斬殺。景勝は名家・直江家存続のため、直江信綱の妻・お船の方と兼続を結婚させて直江家を継がせました。 その時に『直江兼続』と名を称したのです。

神指城(こうざしじょう)

上杉景勝が徳川家康との戦いに備えて築城したと言われる幻の巨城です。
築城総監は直江兼続。その面積は約50haで、鶴ヶ城の約二倍に相当する大規模なものでした。 築城にあたっては広大な領国内から8万人とも12万人とも言われる役夫が動員されたと伝えられています。 現在の会津若松市の人口が約13万人ですから、神指築城当時の若松は、未曾有の活況を呈していたものと推測されます。
築城を進めている最中、西笑承兌の書状を携えた家康の使者が会津を訪れています。承兌の書状は、神指城の築城や、道路橋梁の工事、武具の収集などが、景勝の逆心による戦闘準備と疑われているので、急ぎ上洛して申し開きを行うべきであるという内容でした。

[画像]神指城

これに対する返書が、世に有名な「直江状」です。神指城が関ヶ原の引き金を引いたと評される所以となっています。
神指城は完成を見ぬまま6月初旬に築城が中止されます。これ以降、上杉家は、徳川家康率いる会津征討軍への防備を固めて行くこととなります。
関ヶ原の戦いが終了したのちも、上杉家には戦闘状態が続きますが、家康への恭順を決定した景勝・兼続主従は、慶長6(1601)年8月に徳川家康の面前に出頭し、会津120万石から米沢30万石への減封を言い渡されます。ここに、上杉家の会津統治はわずか3年7ヵ月で終わりを告げることになるのです。