新島八重Yae Niijima

新島八重について

新島八重は、会津藩の砲術師範であった山本権八・佐久夫妻の三女として現在の会津若松市に生を受けます。幼少期から男まさりな性格だった八重。家芸の砲術に興味を示し、実兄の覚馬から洋式砲術の操作法を学びました。戊辰戦争時では、断髪に加え亡き弟・三郎の装束を身につけて男装し、スペンサー銃を持って奮戦しました。この姿が後に「幕末のジャンヌ・ダルク」と呼ばれるようになった所以といえます。

その後、戦争で命を落としたとばかり思っていた兄・覚馬を頼って、家族で京都へ移り住みます。覚馬は京都府顧問となっており、八重は兄の推薦を受け京都女紅場(後の府立第一高女)の権舎長・教道試補となりました。この頃から茶道に親しむようになります。同じころ覚馬の元に出入りしていた、そこで同志社大学創立者となる新島襄(同志社創立者)と運命的な出会いを果たし、再婚します。

[画像]新島八重

ハンサムウーマン

男女の平等を望む八重は、アメリカ帰りの夫を『ジョー』と呼び捨てにしました。また、襄もまたレディファーストで八重を扱ったので八重の態度はより一層横柄なものに見えたのでしょう。その生き方は女は男に従うことが当然視された時代に世間から「天下の悪妻」といわれてしまいます。
しかし襄は「気にすることはありません。僕はそんな八重さんが大好きです」と励まし、八重もまたそのスタイルを変えませんでした。ふたりはたいへん仲睦まじかったと言われています。
ドラマ「八重の桜」では娘時代の八重を綾瀬はるかが演じ、会津の美しい自然の中で砲術を覚え、戊辰戦争の戦乱をその砲術をもって鶴ヶ城を守る逞しくも美しい八重を好演しました。

兄・山本覚馬

山本覚馬は、会津藩士で砲術指南役の山本権八の長男として、鶴ヶ城近くの武家屋敷にて生まれました。山本(新島)八重の兄であり、同志社大学の創立者・新島襄の協力者として知られています。
不幸にも眼病を患い、ほとんど失明同然の状態になりましたが、この失明については、持病の白内障の悪化と、1864年砲兵隊を率いて参戦した禁門の変での破片による負傷が原因と言われています。失明という重い障碍を負いながらも、西洋事情の見聞を広め続けました。
ドラマ「八重の桜」では西島秀俊が演じ、会津で蘭学所を開設し、会津藩士だけでなく、諸藩士や新撰組にも洋式砲術を教授する役として好演を果たしました。

新島八重ゆかりの場所

八重と覚馬の生家

[画像]八重と覚馬の生家

山本八重と覚馬の地碑は、庄助の宿 瀧の湯から車で10分ほど行った会津市街にあります。実際の生家は、そこから西へ五十メートルほど歩いたところに位置していましたが、現在は民家となっています。鶴ヶ城の西口から約500メートル、山本覚馬・新島八重生誕の地碑として1989年に同志社が建立しました。戊辰戦争で鶴ヶ城にろう城して戦った八重が、会津藩降伏の開城前夜に詠んだといわれる歌が刻まれています。
会津市内の大通り、神明通りの近くにあり、鶴ヶ城からも近いので観光の際は是非、市内見学も兼ねて散歩してみてはいかがでしょうか。今は市街地になっていますが、あちらこちらに当時の趣が残った建物や、見上げるとすぐ近くに会津のシンボル鶴ヶ城が見える町並みは、旅の思い出をより豊かにしてくれることでしょう。

大龍寺

[画像]大龍寺

数多くの会津藩の名士や士族が眠る大龍寺。ここに八重の先祖も眠っています。 寛永20年(1643年)に保科正之とともに会津にやってきた機外禅師が開山したお寺です。
礼儀作法の流派として名高い小笠原流の祖・小笠原長時の墓所となった桂山寺がその起源といわれています。戊辰戦争の折は西軍が使用していたため、戦火を免れたのだそうです。
また、会津七福神のうち布袋尊を安置しており、本堂の表には、戊辰戦争殉難殉節供養の碑。本堂裏には、京都の嵐山から移植した「大龍寺のかえで」が秋には遠州流の庭園を紅く染めます。 寺に残されている文化年間から続く過去帳によると、山本家も八重の高祖父の時代から、ここを菩提寺としていました。

八重は他界する前年の昭和6年に、散在していた山本家の墓を大龍寺に合葬し墓標を建立します。その際、八重みずから墓石に「山本家之墓」と筆を執ったそうです。 墓標の裏には「昭和六年九月合葬 山本権八女 京都住 新島八重子建之 八十七才」とあり、この翌年に八重は88年の生涯を閉じます。

会津若松市慶山にある大龍寺は、庄助の宿 瀧の湯から車で5分ほどの飯盛山に向かう途中にあるお寺です。石段を登った先に山門があります。
大龍寺は「ゆうれいの足跡」でも有名ですが、修学旅行生の方のご見学はご遠慮くださいとのことです。

會津藩校日新館

[画像]會津藩校日新館

会津藩は教育に熱心な藩で、五代藩主・松平容頌の時代に、五ヶ年の歳月を経て総合学校「日新館」は創設されました。敷地内には水練場や天文台までをも備えた全国有数の藩校となりました。

主に儒教の教典を修める素読、弓・馬・槍・剣の武術が必須科目で、優秀だった者は江戸に遊学に出ることができ、後に八重の兄・覚馬も江戸に遊学しています。江戸より戻った覚馬は母校日新館で教鞭をとり、会津の人材育成に努めます。会津藩士の子供たちは、数え年で十歳になると日新館に入学します。

ドラマでも有名になった「什の掟」は、日新館へ入学する前の六歳から九歳のうちに藩士の心得として教えられ、入学後は「生徒の什」というさらに細かい掟の内容を身に付けることが誇りある会津の武士としての義務でした。 しかし、日新館に入学できるのは男子のみ。当時、女子に学問を教えるという概念は無く教育制度もありませんでした。藩士の女子は家族から読み書きを習い、裁縫や機織りを習うのが一般的で、八重は日新館への入学も什に入る事は叶いませんでしたが、父や兄・覚馬から「什の掟」や「日新館童子訓」などを学んで育ちました。
また、いざというときのための切腹の作法や、戦になった時のための武術として薙刀を学びましたが、八重は砲術師範の娘に生まれ、鉄砲の知識を得ていたため、薙刀が通用しなくなることを悟っていたようです。

兄・覚馬が教鞭を振るった日新館。戊辰戦争の前に八重と結婚した川﨑尚之助も教授を務めるなど、八重にとって深い関わりがある場所といえるでしょう。 戊辰戦争により校舎は焼失しましたが、もとは会津若松城の西隣に日新館の校舎があり、今は日新館の跡地を知るものとして残されてるのは天文台のみとなっています。
現在、ドラマなどで撮影に使われている會津藩校・日新館は、1987年に当時の図面より完全復元され河東町の雄大な会津盆地の高台に位置する場所にあります。観光施設として博物館、研修・宿泊施設、映画撮影所などを兼ね広く開かれています。

[画像]會津藩校日新館

飯盛山

[画像]飯盛山

庄助の宿 瀧の湯から丁度真北に位置する飯盛山は、白虎隊自刃の地として有名です。近隣には白虎隊記念館などがあり、八重の桜ブーム以前から観光名所として知られています。ご飯を盛ったような、こんもりとした形から「飯盛山」と名付けられました。

江戸時代後期の戊辰戦争に際して起きた会津戦争では、藩士子弟の少年たちで構成された白虎隊が抗争中飯盛山に逃れました。その際、鶴ヶ城周辺の武家屋敷で行われていた炊き出しの煙を、落城と錯覚し、自刃したと言われています。
山中には白虎隊の墓があり、昭和32年には蘇生者飯沼貞吉の墓も設けられ、山下には白虎隊記念館も建設されました。今も白虎隊墓前は香煙が絶えることはありません。

山のふもとには会津のお土産屋さんが並びます。中腹には日本では大変珍しい木造建築物の栄螺堂(さざえどう)があります。この建物は上りと下りで同じ道を通らず抜けられる特殊な作りをしており、国の重要文化財に指定されています。

ドラマ「八重の桜」では勝地涼演じる山川健次郎が白虎隊士として有名です。落城後の会津藩の未来を背負って、猪苗代の謹慎所を脱出し、長州藩の奥平謙輔の力を借り、アメリカのイェール大学に留学します。その後は東京・九州・京都の大学総長を歴任し「白虎隊総長」と呼ばれ、晩年は会津の復権に努めます。
このように白虎隊でも全員が自刃したのではなく、生き残り会津を支えた少年たちも数多く存在します。ドラマ「八重の桜」では白虎隊の姿こそあまり見ませんが、会津観光と言えば白虎隊、白虎隊と言えば会津というくらいに、会津観光ではとても有名な存在です。

鶴ヶ城

[画像]鶴ヶ城

難航不落の名城とうたわれた鶴ヶ城、戊辰戦争でも新政府軍の猛攻の前に一ヶ月もの籠城に耐え、城を落とす事はありませんでした。石垣だけを残して取り壊されたのはその後の明治7年のことです。昭和40年9月にたくさんの方々の寄付により、鶴ヶ城は蘇り、平成23年春には幕末時代の赤瓦をまとってリニューアル公開されました。
鶴ヶ城は会津若松市のシンボルでもあり、数々の催し物が開催される場所としても有名です。2013年春にはドラマ「八重の桜」を記念として、大規模なプロジェクションマッピングイベントも開かれました。2012年にも復興イベントとしてプロジェクションマッピングイベントが行われており、大型の城に投影するのは世界でも初めてと言われています。